この記事は、2021年6月3日に、既に廃止したWEBサイトに掲載したものを再掲するものです。
PVが比較的多く、新設当サイトの基本方針と合致しているので取りあげました。
ごく一部、現状に合わない箇所を修正し、他は極力原文のまま紹介します。
この記事には、広告が含まれることがあります。

家族を軸にした社会問題をこれまで取り上げ、パラサイト・シングルや婚活などの用語を生み出して問題提起してきている代表的な社会学者、山田昌弘氏。
その著『新型格差社会』(2021/4/30刊)、及び『日本の少子化対策はなぜ失敗したのか?』(2020/5/30刊)にも注目してきました。
新型格差社会、少子化社会への極めつけの対策としてのベーシックインカム論
両書のテーマ、「新型格差社会」「少子化社会」それぞれに共通の経済的要因への対策として、日本独自のベーシックインカム、「ベーシック・ペンション(生活基礎年金)」が必要かつ有効であることを、http://basicpension.jp で展開してきました。
以下がそのリストです。
<『日本の少子化対策はなぜ失敗したのか?』で考える絶対不可欠のBI論>シリーズ
◆ 「家族格差」拡大・加速化対策としてのベーシック・ペンション:『新型格差社会』から考える格差・階層社会化抑止のBI論-1(2021/5/8)
◆ 「教育格差」対策としてのベーシック・ペンション:『新型格差社会』から考える格差・階層社会化抑止のBI論-2(2021/5/10)
◆「仕事格差」対策としてのベーシック・ペンション:『新型格差社会』から考える分断・格差抑止のBI論-3 (2021/5/12)
◆ 「地域格差」対策にも有効なベーシック・ペンション:『新型格差社会』から考える分断・格差抑止のBI論-4(2021/5/14)
◆ 「消費格差」の本質は所得格差。ベーシック・ペンションが必然の対策:『新型格差社会』から考える分断・格差抑止のBI論-5(2021/5/16)
<『新型格差社会』から考える格差・階層社会化抑止のBI論>シリーズ
◆ 結婚・子育ての経済的側面タブー化が少子化対策失敗理由:『日本の少子化対策はなぜ失敗したのか?』で考える絶対不可欠のBI論-1(2021/5/24)
◆ 夫婦・親子をめぐる欧米中心主義的発想が失敗の理由?:『日本の少子化対策はなぜ失敗したのか?』で考える絶対不可欠のBI論-2(2021/5/26)
◆ 少子化の主因、リスク回避と世間体意識変革は可能か:『日本の少子化対策はなぜ失敗したのか?』で考える絶対不可欠のBI論-3(2021/5/27)
◆ 山田昌弘氏提案の少子化対策とは?:『日本の少子化対策はなぜ失敗したのか?』で考える絶対不可欠のBI論-4(2021/5/28)
以上の記事と同様の視点・論点については、これからも何度も触れることになると思います。
できれば、2シリーズのシリーズ毎に全記事を一つにまとめて、再度整理したいと考えてもいます。

結婚は「経済と世間体」でするもの、決まるもの?|山田昌弘著『結婚不要社会』から考える
上述の『日本の少子化対策はなぜ失敗したのか?』から1年前に出版されたのが『結婚不要社会』(2019/5/30刊)。
前著において、少子化の要因として、一応は経済的要因、将来にわたっての子育て・教育に必要な費用負担への不安等を上げていました。
それは、当然、結婚生活・家族生活における経済的不安がベース。
それが招く、非婚・未婚、あるいは晩婚による出生数の減少。
ならば、やはり「結婚」についてのマイナスな認識を、プラスに変える方策等を考えるべき、と行き着きます。
そこで今回は、『結婚不要社会』を概括して、これからの社会と個人における結婚のあり方について考えてみることにします。
結婚の定義:そもそも「結婚」とは
と問うて、山田氏は、こう言います。
結婚とは社会を構成する枠組みの一つ。
人類社会に共通する最低限の部分を取り出して定義すると
「性関係のペアリングに基づく恒常的関係」。
そこには、恋愛というような「感情」の要素はまったく入ってこない。
それはそうですが、「性関係のペアリング」に基づく、ということも同意できない要素であります。
私が考える「結婚」については、当サイトの2番目の記事として、10年以上前のものですが、「結婚と性愛」についても含め、以下で縷々述べています。
⇒ 結婚、してみませんか?|10年前の結婚論がそのまま現在の結婚事情に – 結婚家族.com
しかし、山田氏の最低限の定義で示す「性関係」が「性愛」を意味するのではないんでしょうね。
ジェンダー、「男性」と「女性」という2種類の性の違いのみを意味しているのかもしれません。
制度としての結婚
結婚を「制度」として見ると、同氏はこう説明します。
「婚姻」は、「単に一時的な男女の性関係や私的な同棲と異なり、社会的に承認された持続的な男女間の結合であって、その当事者の間に一定の権利・義務を派生する制度」。
文化人類学では、通文化的な婚姻関係について、おおよそ「排他的性関係」(結婚した二人の性関係の特権的な正当化)と「嫡出原理」(結婚した二人の子どもの社会的位置付けの正当化)という2つの概念に集約される。
これも、実態をみると、断言することには、ムリがあります。
要するに、結婚は、多様性を持ち、一つの定義では収まりきらないことは明らか。
そう考えれば、もっと結婚に対する考え方を、弾力的に、他人のことを気にせずに考え、取り扱う。
その上で対応することができるようになってきても良さそうに思うのですが。
結婚制度をめぐる歴史的考察の(無)意味?
一応山田氏の定義を前提とした形で、本書の構成順に辿っていくと、結婚についての大まかな歴史を確認できます。
前近代の結婚、近代社会の結婚
必ず親など親族の承認がないと結婚できなかった「イエ」と「イエ」が結びついた「前近代における結婚」。それが「個人の選択」に委ねられるようになった「近代社会」では、個人にとって経済的・心理的に不可欠な相手を選び合う重要なイベントになった。
それは、心理的には、親密性や恋愛感情、性的満足等の情緒的満足を獲得し合う「結婚の純化」「恋愛結婚の不可欠性」を意味する。
一方、経済的生活において配偶者に依存し、子育てを含め、夫婦二人で「生活共同体の不可欠性」を形成するイベントにもなった、とします。
この相互依存性こそが、近代社会が「結婚不可欠社会」に変貌することになった要因。
こう言い換えているのです。
前近代社会は親戚や村といった共同体がなにか困ったときには助けてくれた。
一方、近代社会は、家族以外で自分の生活を保証してくれる存在がなくなった。
なぜか、人は、社会との関係なしに結婚を成立させること、家族形成と維持を行うことができない。
そう断定しているかのように読み取れます。
結婚・婚姻が本質的に持つ、私的行為、私事(わたくしごと)という側面を、どうして人は手放してしまうのか。
もう現在社会において、その呪縛から、自ら、そして社会も、個々人を解放してもよいと思うのです。

前近代社会の家父長制に基づく婚姻から、戦後の皆婚社会へ
確かに、一般論としての前近代社会から近代社会への婚姻の変遷は、概ね、日本の歴史の変遷同様の軌跡を辿ってきたと言えます。
その象徴的な表現として用いられるのが「家父長制家族」から「核家族化」という流れです。
ジェンダー問題を語るときに、未だに、意識上の制約・障害とされている「家父長制」とそれに基づく「性別役割分業」が提示されます。
しかし、本来の望ましいあり方としての「恋愛結婚」は、それらの矛盾を消し去る効果が期待されたと思うのです。ですが、どうも、経済的な依存関係を厳としていた時代と社会では、まったく意に反した夫婦関係とその延長線上での社会形成を促してきたと言えます。
それは男女双方にとって不幸なことでした。核家族化の深化と格差を生み出し、拡大させていった社会経済システムの変化。それが、現代・現在の結婚困難化社会と、能動的・受動的両面での結婚不要社会を出現させるに至った。
そう私には思えます。
結婚して当たり前。希望すれば、誰もが結婚できる「皆婚時代」。
その楽天性、無意識性を喪失させた20世紀終わり以降の日本社会。
それが「結婚不要社会」を生みだす時代へと繋がりました。
欧米の「結婚不要社会」と日本の「結婚不要社会」の違い
以下の記事で紹介した、山田氏による「欧米中心主義的発想」。
◆ 夫婦・親子をめぐる欧米中心主義的発想が失敗の理由?:『日本の少子化対策はなぜ失敗したのか?』で考える絶対不可欠のBI論-2(2021/5/26)
結婚という形式よりも「恋愛・情熱」とう情緒先行の男女間意識。それに、成人は、親に依存せず独立して生きるのが当然という社会。これにより、同棲や結婚前に子どもを持つというき方・生活が必然化。
非嫡出子、シングルの子どもの養育・教育面で不安のない社会保障制度が確立された欧州諸国事情です。
こうした文化的・歴史的背景に基づく生き方・価値観。欧米において、結婚なしでも男女間の関係や家族形成・関係の維持を可能にしている。
欧米における「結婚不要社会」を維持できる背景です。
一方の日本社会。
欧米のような背景は醸成されることなく、恋愛の面倒さ・コストパフォーマンスの低さ、振られることへのリスク・怖さからの逃避、性愛行為への関心の低下、等々、非婚化への理由付けは、まさに多様化し、広がるばかりです。
結婚しなくても、生きていける、やっていける。
それも、ある種の文化と経済社会が醸成された結果としての「結婚不要社会」の証。
そう言えなくもないのでしょうが、論拠としては希薄です。
結婚困難社会の多面的・複層的な要因と結婚のシンプルさとの乖離
日本社会における「結婚不要社会」化では、本当は結婚したいんだが、思うようにいかないことからの諦め。それが、結婚しなくてもいい、結婚は要らない、という意識化に繋がった。
そういう受動的要因も加担しているように思われてなりません。
そのことに、経済不況による就職難、非正規雇用の増加、共働き世帯の増加と普通化、そしてコロナ禍。
結婚云々以前の現在とこれからの生活への経済的不安。それは、増すことはあっても減ること、解消される兆しさえない。
これに、介護、引きこもり、親の高齢化、8050問題などの社会問題が、それぞれ一人ひとりの事情により加わります。こうして、結婚困難要因の一層の多様化・複層化が進行し、深刻化し続けていると言えます。
本来、男女関係のシンプルなあり方の一つの示し方、現れ方であった恋愛・性愛からの結婚や、子どもが欲しい男女間の気持ちの一致の結果としての結婚。
それが、今も残る世間体や、見栄やリスク回避、責任回避。ある意味自己への忠実な気持ちも上乗せされ、結婚を一層困難なものにしている。(ということになります。)
社会は、そこに今すでに生きている子どもたちのための保活や待機児童問題。そして、仕事と子育てとの両立、時には仕事と子育てと介護も、と絡ませてきます。
社会と個人とが、自縄自縛相互作用を起こしている現代社会に、私たちは生きているといえるでしょうか。

権利としてのシングルで生きることの社会化、社会的認知
こういう視点から時々考えたりもします。
未婚化・非婚化が、結婚不要だから、結婚しない自由を選択してのことだから、という人が増えてきました。
言わば、山田氏が提起する「世間体」を気にせずに、自分の生き方として非婚・未婚の人生を歩む。
表現が適切ではないとは思います。そうした負い目や後ろめたさを払拭した生き方が、大手を振って「社会的認知」を得ることが可能な社会になった。
そういう雰囲気、文化も行き着く所、少子化の要因の一つにはなっているかと思われます。
そうした事情については、先にも紹介した以下の記事でも述べています。
◆ 少子化の主因、リスク回避と世間体意識変革は可能か:『日本の少子化対策はなぜ失敗したのか?』で考える絶対不可欠のBI論-3(2021/5/27)
<多様な生き方、結婚しない自由、おひとり様普通論等の非婚奨励・支援社会化の影響>と題した記事。
その中の一部を転載しました。
気になっていることの一つに、未婚・非婚者が増える社会的状況・背景があります。
それは、結婚せずにひとりでいること、ひとりで生きることが、恥ずかしいことではない。自由な生き方、当然の生き方なんだという価値観が広がっている。
それが、未婚率の向上、少子化を結果的に後押ししていることになっている。
こうした点も、次第に非婚・生涯未婚率上昇とそれから生じる少子化に繋がっていると考えます。
その起点になっている書に、上野千鶴子氏著『おひとりさまの老後』(2007/7刊)があります。
その後に、荒川和久氏の『超ソロ社会 「独身大国・日本」の衝撃』(2017/1/27刊)。
同氏と中野信子氏共著の強力な支援書『「一人で生きる」が当たり前になる社会』(2020/12/20刊)が続きます。
この件については、今回はその紹介にとどめ、後日、もう少し深堀りしたいと考えています。

山田氏が提示する、日本の結婚の未来形
最終的には、
「結婚は、日本では経済的理由と世間体でするものになってしまった。」
とする山田氏。
そのことから当然、
「経済と世間体がどう変化するかによって、日本の結婚の形も変わっていく。」
と言います。
世間体や見栄によらない人たちの中から新しい動きが生まれている。
が、特殊なケースにとどまっている。
この先、経済的には男性の格差が縮小する可能性は低い。
だから、そうした新しい人が増えるかどうかにかかっているが、楽観はできず、むしろ今日の若者は一層それに縛られている面がある。
そのことからも、社会としても個人としても、パートナーなしで「おひとりさま」で生きることも視野に入れておかないといけない。
そこから、逆に、世間体に合うような「婚活」も広がっていく。
公的機関が少子化対策に乗り出し、予算をつけて出会いの場を提供する時代となっている。
こう述べて、最後には、こんな思いで終わっています。
パートナーと親密性を持って楽しくくらすということ、つまり結婚は望ましいことと思う。
しかし、それができない人に対して、例えばバーチャルな関係に走るのはよくないことだとは、私には言えません。
どこに基準を置くかによって、結婚が必要か不要かは異なってくる。
例えば、社会の再生産という観点からは、少子化は特に地域社会では困る問題だが、国や地域社会が困るというのと、本人が困るというのは別のことであって、社会学者としては両方大事だというまとめの言葉しか出せない。
日本でも欧米のように、結婚しないで子どもを生んでも大丈夫という仕組みが増えてくれば、結婚しない人が増えても構いません。
けれども、国がそれを認めたからといって、状況がすぐに変わるわけではないのです。
世間体が変わらない限り、日本は結婚しなければ子どもが生まれない社会であり続けるのではないでしょうか。
もうひとつ、上記にあったバーチャルな関係を引き合いに出しつつ、<おわりに>に書き添えられている表現を付け加えます。
価値判断を行なわないことを心情としている社会学者としては、どちらの社会がよいということはできません。
ただ、日本では、結婚困難は少子化から人口減少という結果をもたらし、さまざまな社会問題を招来させています。(略)
本書が出版されるときには、時代は令和に移り変わっています。
伝統的な結婚が困難になるなか、バーチャルな関係が増えるというトレンドは拡大するのでしょうか、それとも逆転するのでしょうか。
また、平成の続きで、過去(昭和の時代)を追い求める人が多数派であり続けるのでしょうか。
還暦を過ぎてもなお、いや、過ぎているからこそ、若い人の動向が気になるこのごろです。
『日本の少子化対策はなぜ失敗したのか?』のまとめの時と同様の感じ・感覚で終わったことは、想定内とは言え、残念なことでした。
学者が価値判断をしない、とすれば、一体何を目的・目標にして研究を行うのか。
同氏は、過去政府の関連会議や委員会のメンバーを何度も務めています。それらは、どういう目的・意図をもってのことだったのか。
よくある、「社会」がいけなかった、で終わるパターン。
政治・行政には、責任はなし、ということになってしまうのです。
『「婚活」時代』執筆以来、今なお婚活を支援し続けている方です。ならば、還暦を過ぎたからこそ、解決に肉薄する対策提案に、最後?の力を降り注いで頂きたい。
結婚困難が、さまざまな社会問題を招来させていると断言するからには、一層そう思うのです。
なお、「結婚困難社会」を示す書として、共同通信社勤務の4人の女性記者による『ルポ 婚難の時代 悩む親、母になりたい娘、夢見るシニア 』(光文社新書・2021/3/30刊)を読み終えています。

実態分析から、結婚行動に結びつく何を創造するか、何を産みだせるか?
以上が、当時の内容です。
読み返してみて、山田論も私のコメントも、どちらもインパクトがないなあ、と。
結局、結婚不要社会に変化してしまった。
結婚を奨励し、結婚すべき、結婚しましょう!というスローガンを掲げても、効果は期待できない。
その前提として、既に結婚困難社会が形成されている。だから、もうムリ、ムダ、という諦めの境地に行きつく書なのでは。
経済的要因と世間体が未婚化、結婚困難化の壁。
そうは言っても、婚活ビジネスは競争が激しく、厳しい状況。現代・現在には不可欠のサービス業となっている現実。
そう考えると、山田氏も、極めつけの結婚奨励、結婚応援の書を出して欲しいと思うのですが。
EBPMよりも、EBAMを
実態調査をベースにした書の役割は何か?
よく学者・研究者は、EBPM(Evidence‐Based Policy Making)と言います。
しかし、EBAM(Evidence‐Based Activity Making)。すなわち、行動を起こすこと、行動を決意・決断させるアウトプットを創出して欲しいもの。ことあるごとにそう思っています。
私の結婚観や、結婚の在り方についての考え。
学生時代に「家族社会学」に関心を持っていたこともあります。同性婚問題も含め、種々これから当サイトで展開していく予定です。
なお、私の考察と提案の主意は、「結婚しましょう!」「結婚応援します!」にあります。
決め手になることを言えるはずもないのですが。
『結婚の社会学』、『希望格差社会 それから』へ
なお、山田氏自身の書『結婚の社会学』を調べたところ、1996/8/1刊で中古書も入手困難。
しかし、同タイトルの『結婚の社会学』(阪口裕一郎著:ちくま新書)が昨年2024年4月10日刊。
早速こちらを入手したので、後日、参考にしてみようと思います。
ほぼ同時に山田昌弘氏近著『希望格差社会 それから』(東洋経済新報社:2025/1/28刊)を入手。
2004年11月初版の筑摩書房刊行『希望格差社会』(ちくま文庫:2007/3/10刊)から20年経ての続編。
結婚をテーマとしたものではないですが、関連する課題・テーマも満載です。いずれ取り上げたいと考えています。

本稿と対比してお読み頂けるかと。前回記事がこちらです。
⇒ 結婚、してみませんか?|10年前の結婚論がそのまま現在の結婚事情に – 結婚家族.com
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